80 私の職住隣接の現在は


職住隣接とは金魚鉢のような世界になるかと思ったらまったく逆だでした。自分の世界に閉じこもるのではなく、高く、広く、人生という世界を俯瞰できるようになりました。

無 職
現在、私は「無職」である。生計を営むための仕事はしていない。つまり、職業に就いていないのだ。このように言うと、羨ましがられることもあるし、心配されることもある。
10代で持病持ちになり、新型コロナ前に心筋梗塞になった。この間も、ずっと病気と付き合わなければならなかった。私の持病は身体的な病なので、頭と心まで病まないように気を配ってきた。
1つには、「1年に3回、2週間ほどの休みを取ること」である。雪の降る時期と降らない時期、雪の降らない時期は、夏の暑さがピークの時に休みを取る。11月、4月、8月の3回である。今年はちょっと早めの7月に休みを取った。
2週間の休みとは言っても、仕事を忘れるのに2~3日かかるし、仕事に復帰するのに2~3日かかるので、正味は1週間程度の休みである。この間は「無職」になる。仕事用のスマホとPCには電源を入れていない。
そもそも、会社勤めを辞めてからは、仕事をする気がなければ「無職」であるし、仕事をする気があれば「フリーランス(自由業)」なのだから、他の人が思うほど羨ましくも、心配されることもない。
年3回
子どものころから長い夏休みと冬休み、短めの春休みが何よりも待ち遠しかった。小中高大の学生生活で16年間(私は19年間)で、夏冬春の3回の休みが、私の年間計画に沁み込んでしまったように思う。
会社勤めでも、このように休みを取りたかったのだが、所詮、無理な話で10年間は我慢した。そして10年目に会社勤めを辞めて、自営業に身を転じた。自営業になって年3回の休みを取ったのは最初の2年だけだった。
会社を立ち上げてからは、この年3回の休みを理解できる人はいなく、仕方なく私も休みを取らずに、盆と正月の年2回の休みを取るだけだった。なぜ理解できなかったかは、「年3回の休みの期間に給与が出ない」としたからだ。
そして、また10年ほどたったころに会社を辞めた。20年間、会社勤めをしてわかったのは、私の体は年3回の休みがなければ、体調が悪くなり、頭と心にも影響が出てくるということだった。
20年かからなければ、わからなかったのかというと、そういうことではない。年3回の休みの間の生活に要する金額が、年齢を重ねるにつれて大きくなった。この休みの間も収入がある仕組みへ踏み出すのに時間がかかったのだ。
目 的
「休みの間でも収入がある」というと、そんな話があるなら教えて欲しいという人もいるだろう。必要な収入は人によって異なるのだから、方法も人によって違う。
話だけなら、その類の本は数多ある。私も転職時には読み漁ったが、ほとんどが方法論を精神論に置き換えていることが多いことがわかり、それ以来読んでいない。
休みの間の収入とは、生活のための「収入」といういうことになる。さらに、もう一歩踏み込むと、「生活のため」とは、生活に要する「支出」のためである。
「収入」と「支出」の関係は、支出があるから収入が必要という考え方もできるが、収入に見合った支出と考えることもできる。支出を少なくすれば、必要な収入も少なくなる。
この毎月の収入と支出というサラリーマン的月収思考では、年3回の休みは取れない。私の場合は年収で収支を考えている。
私は体調を維持するためには、年3回の休みを得ること、年収で収支を考えることが必要条件だった。目的は体調維持、目標は年3回の休み、年収〇〇〇万円であった。
この目的と目標の違いが「職住隣接」というライフスタイルにも必要な考え方である。
生 活
私にとって、人生の目的が「「1年に3回、2週間ほどの休みを取ること」ではない。持病持ちの私にとっての目的は「人生そのもの」である。10代で最初の病気が発覚したときに、医者が父親に説明しているのをカーテン越しに聞こえた。
「お子さんの病気は一生付き合っていかなければならない病気です」と。
今では、そのようなことはないのだが、当時の私にとってはショックというよりも、これから何が起きるのだろうという不安が先に立った。1週間で5キロ痩せた。それから1週間は寝たきりで、さらに5キロ痩せた。
私の入院していた病棟は、病室こそ違ったものの、毎週のように亡くなる人が続いたこともある。1ヵ月の入院予定が、1年近くにもなるとは、そのときは思ってもいなかった。
この時の入院経験は、私に時間の大切さを教えてくれた。1年後に自宅療養に切り替えても、病状は良くも悪くもならなかった。ただ、毎日の生活が体に重くのしかかってきた。
「生活」とは、生きると活きるという2つの「いきる」の熟語である。生きることはできても、活きている実感はなかった。周囲の目もあり焦りもした。なにかがきっかけで、例えば本を読んでなにかを気づかされた、ということもなかった。
私の生活は、孤独だった。
孤 独
あなたは自分を「孤独」と言う人をどう思うだろうか。可哀そうと同情する、そんなことはないと励ます、いずれにせよ、「孤独」という言葉は悲観的にとらえられる。高齢社会の現在では、特にそう思われている。
私にとって「孤独」こそ、人生を前向きに考える、楽観的に考える原動力になった。自分は他の人とは違うと思いあぐねた結果、解放された気持ちになったのだ。他の人と違うことが当たり前のように感じることで、目の前が拓けた気がした。
他の人と同じサイクルで考えずに、また同じ環境でないことを受け入れれば、持病は個性でしかなくなるのだ。それ以来、自分の健康状態、時間的サイクル、身の回りの環境に合わせて、今でいうキャリアプランを立てた。
人生全体のライフプランではなく、キャリアプランである。その中の1つに現在の「職住隣接」の原型も含まれていた。仕事よりも生活に中心を置いた生き方はこのときから始まった。
このブログのサブタイトルでもありテーマでもある「人生後半戦のベターライフストーリー」としてブログを書きたかったのだが、身の丈に合った自分の日々の生活観を「職住隣接物語」として書いてきた。
そして、ブログの「おわりに」を書くまでにいたった。





