75 個人のベターが社会のベスト~職住隣接物語の終わりに

個人のベターが社会のベスト~職住隣接物語の終わりに

AIと共に書き続けた1年、「頑張らない、我慢しない、無理しない」を守りながら、少しずつ書き溜めてきました。ようやく最後の記事になりました。感無量と言いたいところですが、早速、次の作業に入っています。詳しくは「おわりに」で。

個人のベターが社会のベスト~職住隣接物語の終わりに



「職住隣接物語」も最後の記事となった。過去から現在までの職住隣接、そして想定する未来から逆算した現在の職住隣接についてお話ししてきた。前回の記事では自分の未来の姿を描くことを中心に述べてきたが、今回は未来の社会がどうなっているのかを私の妄想とともにお話ししたいと思う。

量から質へ~人口減少社会が目指す「密度」

日本の人口は減少しているが、世界の人口は2022年に80億人を超え、今世紀末までに100億人を超えると国連は予測している。世界人口の増加は、増加要因と減少要因の差がプラスになっていることに他ならない。

増加要因と減少要因は、世界中で均等に生じるのではなく地域差が大きい。現在の世界の仕組みはインターナショナル(国家間)でのバランスから始まり、経済の発展によりグローバル(地球規模)なサプライチェーンで結合している。

バランスから結合への変化は、個から全体へ、ボトムアップからトップダウンへ流れが逆流しており、個人主義から全体主義へ、民主主義から全体主義へ、企業の集合から超大企業へと経済の中心が変わってきている。

世界的な人口増加による社会全体の考え方と人口減少が進む日本の考え方を一致させることは難しい。人口の変化は技術と文化にも影響する。人口増加の地域では、量を増やす技術と文化が重視される傾向にある。

一方、人口減の地域では量の対比から質を重視するようになる。では「質」とは何を意味するのだろうか。芸術性であれば、人口増の地域からも生まれる。希少性であれば量の比較であるので、質とは言い難い。

「密度」で考える

人口減の地域、すでに人口が少ない地域で、質を高める方法に「密度」という考え方がある。密度は分母と分子から求められ、分母を小さくするか、分子を大きくすることで密度は高くなる。技術と文化も「密度」を高めるという視点から考えると日本の特異性を理解できる。

例えば、小さな空間に機能を詰め込む盆栽や茶室、あるいは精密な電子部品のように、日本の文化と技術は常に「密度」を高める方向で進化してきたと言えるかもしれない。

「職住隣接」も「密度」という視点から考えると、量を生み出すのではなく、質を高める仕事と生活が向いている。1人で行う仕事であれば特化することが必要であるし、1人のスペースを重視する生活ならばシンプルに暮らすことが望まれる。職住隣接の未来は「密度」で考えてはどうだろうか。

エネルギー(生存、生活、生きる)の省力化と地産地消

ここで取りあげるのは、未来のエネルギー、次世代エネルギーという類の何をエネルギー源にするかということではない。これらのエネルギーは生活エネルギーに含まれ、脱炭素の視点から電気エネルギーに集約されつつある。では電気エネルギーが万能かといえばそうでもない。

電気エネルギーはエネルギー源からの変換効率を考慮しなければならず、太陽発電の場合は光エネルギーの20%、水力発電の場合は重力エネルギーの80%の変換率となっている。発電所(電気エネルギーの生産地)から消費地までの送電ロス、発電施設の建設費と運用費など総合的に考えなければならない。

生存エネルギーとは生存するためのエネルギーであり、食糧(主食)、食料(主食以外)、水、空気など直接体内に取り込むものを指す。世界的には人口が増加することによる食糧危機が指摘されているが、人口減少傾向にある日本では自給率と廃棄ロスが問題視されている。

ここでも生産可能な能力の問題と生産地から消費地への運送に関わる問題が生じている。都市部への人口集中、また可住地域を増やすために農産地からの土地利用の転換など、前述の人口問題とも大きく関わっている。

生産地と消費地の距離

生活と生存に関わるエネルギーとは別に、生きるためのエネルギーについても過去記事で述べた。人間が社会的存在であるとは、人間関係によって生きるためのエネルギーを得ていると言っても過言ではないからである。日本では、血縁、地縁、学縁、社縁など閉ざされた人間関係のつながりが重視されてきた。

このような「生活、生存、生きる」の人生の元となるエネルギーは、今ではグローバルなつながりになっているが、生産地と消費地が離れていることがあらゆる問題の原因になっている。生産地と消費地を近づけるためには、エネルギーの移動を少なくすることに他ならない。

その方法は、交通・通信網の整備によって物理的な距離を克服し、ネットワーク型コンパクトシティのように生産地と消費地そのものを近づけることができる。このようなアプローチを展開することで未来社会の個人の生活は消費地でありながら、生産地としても考えることもできる。

消費地として考えていた自宅を、生産地の一部として転換するように考えたのが「職住隣接」である。職住隣接にも問題がないわけではないが、それぞれの家で仕事をしている未来の姿を想像して欲しい。「生活、生存、生きる」のエネルギーがネットワークのようにつながる未来である。

デジタル社会への移行と、2つの未来

アナログからデジタルへの橋渡し

現在、私たちの周りでは「アナログ」と「デジタル」というの2つの用語が使われている。アナログとデジタルの違いは「連続と非連続の違い」であるが、このように説明を受けても理解できない人も多いだろう。

むしろ、仕事や生活の実態に合わせると、人手で行うのがアナログ、情報機器を使うのがデジタルという説明のほうがわかりやすいかもしれない。

実際には、アナログとデジタルは共存している。パソコンのキーボードやスマホのタッチパネルは、アナログとデジタルの橋渡しをしていると考えると分かりやすいだろう。

いつまでもこのような状態が続くとは限らない。近年のキャッシュレス化の傾向はタッチ決済やバーコード決済などの行為は必要だが、橋渡しなしにデジタルからデジタルへと移行していると言える。

未来の社会がすべてデジタルになることはないが、デジタルの割合が増えることは間違いない。その過渡期にはアナログとデジタルで共存する2つの社会が考えられる。

どちらの未来社会を選択するか

1つめは「アナログ社会をデジタルで補完し、一体化した社会」である。表面的にはアナログのように見えても、仕組みとしてはデジタル化して情報処理を行っている社会である。この社会では、デジタルリテラシーはあまり必要ないが、アナログとデジタル間を繋ぐロスとこれによって発生するリスクがある。

2つめは「アナログ社会とデジタル社会が分離共存する社会」である。アナログとデジタルを繋ぐ作業を無くすことでロスとリスクは少なくなるが、デジタルリテラシーが必要になる社会である。どちらの社会も一長一短だと報じられることが多いが、私は前者の「アナログ社会をデジタルで補完し、一体化した社会」が望ましいと考えている。

社会のデジタル化を進めることで、前述までのアナログ社会では解決できない人口問題や広義のエネルギー問題は、デジタル社会になることで解決の方向に向くと予想している。そのためには、デジタルの意味よりも、デジタル社会自体を理解することが必要になる。

労働力の不足はAIとロボットで補い、社会物資とエネルギーの総量を管理することで移動ロスは少なくなる。高齢社会の医療、介護、年金は、アナログ社会を選択した人の支出は多くなり、デジタル社会を選択した人は支出は少なくなるなど、社会全体の効率化と新たな価値創造という効果が生まれる。

未来予想ははずれることもあるが、このようなイメージなくして未来には進めないのも確かである。

教育から学習へ(育てるから育つへ)

新型コロナ禍を経験し、世の中が変化するように思えた。数年前とは思えないほど、はるか昔のようにも感じる。それは、時間が経つのが早いという感覚ではなく、また昔のように戻ってしまうという感覚である。実際に、在宅ワークはRTO(Return To Office)によって最小化される傾向にある。

そして、アメリカは新トランプ政権の下、再び自国中心主義に変わり、世界各国に経済的な圧力がかかっている。日本は、新型コロナ禍から新トランプ政権になるまでに、緩やかに変化していくかと思っていたが、外圧に弱い、言いかえれば「他人の眼を気にする国民性」ゆえ、急激な変化を余儀なくされている。

「変化に弱い日本」と自虐的に言いつつ、にもかかわらず第二次世界大戦後の復興、東日本大震災や他の天災からの復旧には根気よく変化を続けている。自ら変化することには弱いが、外からの変化に対しては適応しやすいのだろうか。これは今後の日本の仕事と生活の関係においても懸念事項となる。

育てる教育から、自ら育つ学習へ

その根源的な要因は、日本の教育制度が精神論から教育論に変わり、論理的には正しいが、人は論理的には動かないにもかかわらず、トップダウンの教育を行い続けてきたことが大きく影響していると考えられる。日本はいつまで経っても欧米の眼を気にする社会を続けるのだろうか。

元来、日本の働き方は5時間程度で、後は自分の時間として遊びもするが、学びもする時間だった。この発想が明治以降、決められた時間に決められたことを行うという、時間を中心とした働き方に変わってしまった。しかも、会議の始まりは決まっていても、終わりは決まっていないという側面もある。

「教育」とは教え育てることであり、「学習」とは学び習う(倣う)ことを意味する。学び倣うことによって自らのものにし、自ら育つ、成長するという意味で私は理解している。他力本願で育てられるのではなく、自力本願で育つ、成長する意味である。

日本はいつのまにか教育を受ける義務が、教育を受ける権利に勝って解釈されていないだろうか。教育を受ける権利とは、学び倣う中での1つの方法でしかないはずである。「職住隣接」も誰かから教えてもらうのではなく、自ら学び倣う意志と姿勢を持ち続けなければ、未来の働き方も暮らし方もできない。

個人のベターが社会のベスト

物事を考えるときにわかりやすいのが、二項対立と二律背反がある。二項対立は1つのものを2つの側面に分けて考える方法、二律背反は2つの物事が同時に成立しないという対立構造で考えることである。ときに、二律背反の物事を二項対立で考える人がいるが、そのときには2つに分けることの意味から考えなければならない。

また、物事を実行するときに成果主義かプロセス主義かという評価軸がある。成果主義とは計画のゴールに到達した時点での目標到達度を評価し、プロセス主義は経過に到達するまでの時間、コスト、人材配置などが適切であったかどうかで目標到達度を評価するという考え方である。私はどちらも正しいので2つの評価軸を持つべきだとしている。

職住隣接物語を振り返って

「職住隣接」というタイトルで記事を作成してきたのは、「職」すなわち仕事と働き方、「住」すなわち生活と暮らし方を、前編では「時間と場所」という視点を持ちながら、自分に合った生き方を模索し、どこかに正当化しようという考えがあったように思う。

「職住隣接」というライフスタイルは、どんな仕事にも、どんな生活環境にも適するとは限らない。「職」と「住」という2つを比較しながら、そのプロセスと成果を良い方向に向くようにしてきた私の経験を物語風にして作成してみた。

実際には、物語というよりも自分の考えを吐露しすぎたように思う。反省ではないが、見直してみて、物語として読んでもらえなかったかもしれないというお詫びの気持ちが沸々と湧き出てくる。私にとっての「職住隣接」の目的であるベターライフ、よりよい人生を目指しての実践録である。

世の中は未だにナンバーワンとオンリーワンを目指している人も多いが、そう思う方々のライフスタイルは、私には適していない。「頑張らない、我慢しない、無理しない」を信条にしている私の人生環境では、自分個人のベターライフが、社会が良い方向に向く一助になればと思っている。

願わくば、個人のベターライフを目指す人が増えることが、社会にとってのベストになるように。