人生後半戦の現実とは~「生きる、老いる、健康である」に向き合う

人生後半戦の現実とは~「生きる、老いる、健康である」に向き合う

「生きる、老いる、健康である」に共通するのは、時間の経過です。時間が経過するスピードは同じでも、感じるスピード感が違いはこれら3つの違いにあります。

人生後半戦の現実とは~「生きる、老いる、健康である」に向き合う

人生後半戦の現実

このブログでは、「人生後半戦のベターライフストーリー」をテーマに、「職住隣接」というライフスタイルモデルを物語として提案している。

人生後半戦を、目に見える「仕事と生活」といった現象面で捉えると、そのあり方は環境や状況によって人それぞれ異なる。一方、その本質面に目を向ければ、誰にも共通する道筋が見えてくる。

その本質を絞り込むと『生きる、老いる、健康である』の3つになる。

👉「生きる」とは生まれてから死ぬまでの時間経過とその時々の状態
👉「老いる」とは「生きる」の一定期間の状態
👉「健康である」とは「健康状態が良好である」の「状態が良好」を略した表現

これらは端的な説明ではあるが、誰もが共通して認識できる事実を、後から言葉で説明したものである。また、人生後半戦においては、常に動的で変化する「状態」を表している。

そして、誰もが経験する状態でありながら、個人の主観や社会的な基準によって評価されるという現実がある。それは、体調の悪い時に病院で受ける診断によって、安堵や不安という主観的な感情を引き起こすのと似ている。

人生後半戦におけるこれらの変化を、まずは自分自身で深く認識し、ありのままの現実を受容することが必要である。他者との違いを比較し優劣をつけるのではなく、それぞれの多様な「状態」を理解する姿勢が求められる。

「生きる」を考える

人生後半戦になるまでには、少なくとも人生の半分を生きてきたことになる。その間に多くの人が「人生とは?」と考え、名言を残してきた。

「人生とは自転車のようなもの。倒れないためには走り続けなければならない」(アインシュタイン)
「人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである」(バーナード・ショー)

ただ、人生とは「生きる」の上に成り立ち、生きた結果ではなく、生きる過程である。私たちは生まれた時から「生きる」宿命を背負っている。

生物がみなそうであるように、自然淘汰を待つのではなく、環境に順応して生き延びていく。人間が他の生物とは異なるのは、生きるための環境を自ら変えてきた。栄養、衛生、医療など、多くの環境を変え、整えてきたのである。

そして、学習や生活、労働など、人間が人間らしく生きるための環境を必要として、その環境によって人間は成長し、進化してきた。

言いかえれば、環境の違いによって、人間は「生きる」という意味そのものに違いを生み、受け入れてきた。私たちは環境を自ら変えることで、生きる意味、すなわち人生も変えることができるかもしれない。それが何歳であろうともである。

「老いる」は必然である

人生後半戦で避けられないのが「老いる」である。「老いる」とは物理的な劣化に例えられることもあるが、「老」の文字は熟練や成熟を意味し、価値があると考えられてきた。ただ、これは経験と記憶が人間に宿る時代のことである。

現代の「老いる」はより科学的に分析され、体内で生体環境を一定に保つホメオスタシス(恒常性維持)の機能不全もしくは劣化によるという論説もある。癌細胞が細胞分裂の時のエラーに起因するように「老いる」もホメオスタシスのエラーかもしれない。

もし「エラー」を未然に防ぐ、または修復できるようになれば、いつかは「老いる」という言葉は使われなくなるかもしれない。しかし、今のところは避けられないのが現実である。

「老いる」は絶対的な表現ではなく、相対的な表現であり、一定の年齢になると「老いる」のではなく、年齢相応に老いる、年齢の割には老いている、などの意味合いがある。

このように「老いる」に抗うようなアンチエイジングや、「老いる」ことを疎外するようなエイジハラスメントなど、DEIに従った社会的傾向もあますが、「老いる」という事実を歪めてはいけない。

「老いる」とは、前述の「生きる」と同様に、環境の変化を自ら作り出そうとしない状態である。それが「老いる」の証であるが、「老いる」を否定的に考える人にとっては認めにくい。

「老いる」とは必然であるために、避けられない。避けられないから「老いる」速さを遅らせる工夫をしなければならない。その方法は人によって違うことを忘れてはならない。

「健康である」の意味

近年では「健康である」ことが当たり前のように思われ、「健康でない」ことが不幸であるかのように思われているかもしれない。「健康である」とは「健康状態が良好である」の「状態が良好」の部分を略した表現である。

健康状態が良好であるか、良好でないかは、医学的基準はあるが、いつのまにかこの基準が社会的基準になっていないだろうか。乳幼児死亡率が高かったころは、健康に生まれてくることを願っていた。かつては「健康は天賦の才」と同じだった。

現代では「健康である」ことを前提に社会全体の仕組みが作られている。身体的な差を補い保護するために、日本の福祉環境は整えられている。その一方で、福祉の恩恵を授かっている人に対しては「一線」を引いている現実がある。

人生後半戦になると、この「一線」を跨がなければならない時期が訪れる。わかりやすく言えば、介護する側から介護を受ける側へ、福祉を維持する側から福祉を授かる側への移動である。

それは、これまで当たり前だと思っていた自立した生活や、他者を支える役割から、誰かの助けを必要とし、社会からのサポートを受け入れるという、大きな価値観の転換を伴うこともある。この事実を真っ向から受け止めなければならない。

人生後半戦の「健康である」の意味は、単に「健康状態が良好である」というだけではなく、「一線を跨ぐ」ことを自分事として認識するという意味に通じる。

「健康である」とは、肉体的、精神的、心理的なことだけではなく、経済的、社会的、人間関係においても当てはまる。それは「健康状態が良好である」だけではなく、「健康的な環境である」ということを意味する。

「現実」から目をそらすと

人生後半戦における「生きる、老いる、健康である」の意味を考えることは重要である。その意味が人それぞれ違っていても、考えること自体が重要なのである。

ともすると、現実から目をそらし、何も考えずに既成の考え方に自分を当てはめて、自ら蓋をしてしまいかねないからである。

「自らの考えを実現する」とは、事実を現実として認めることから始まる。それは「生きる、老いる、健康である」という3つの視点から考えることもできる。

ベストの考えでなくてもよい。少しでもベターになる考えでよい。ひとりひとりがベターな考え方を持つことが、全体としてベストにつながるのではないだろうか。

「人生後半戦のベターライフストーリー」をこのブログのテーマとしたのは以上のような意図がある。そして、「職住隣接物語」は実現するライフスタイルモデルの提案である。

年を重ねただけでは人は老いない。理想を捨てた時に初めて人は老いるのです。(サミュエル・ウルマン)

前述に示したアインシュタインが言うように、人間は生きるために「走り続けなければならない」し、バーナード・ショーが言うように、「自分を創る」ために生きる環境を変えてみてはどうだろうか。